ワンルームの片隅にて

テレビではワールドカップが盛り上がっている。テレビの中で活躍する彼らはいつ、何がきっかけでサッカー選手になろうと思ったのだろうか。

 

風呂上がり、だらしない格好でテレビを眺める僕は疑問に思う。自慢ではないけれど、僕は生まれてこのかた何かになりたいと思ったことがなければ、何かを目指したこともない。ただ流されるままに小中高大と進み、気がついたら社会人になっていた。人より少し良い大学に入り、誰でも一度は聞いたとこのある会社に入り、世間的にはそれなりの人生を歩んでいるのかもしれない。でも、テレビで活躍する彼らを見るといつも思う。

 

自分の仕事は人に何か与えているだろうか。誰かの一日を少しでも変えただろうか。そして、自分は何か一つでも自分で選んだ道を進んで来ただろうか。

 

テレビで活躍する彼らの大体が年下となってしまった今、その自覚は強くなる一方だ。彼からがこの数時間で与えた感動を、僕は二十数年という歳月をかけても誰かに与えることができなかった。

 

人の命に重さはないとか、職業に貴賤はないとかいうけれど、間違いなく僕のそれは軽い。吹いたら飛んで行きそうなこの僕の命は、いつまでこの世界にしがみついていられるのだろうか。

 

お祭り騒ぎの画面を消すと、そこは薄汚れたいつものワンルーム。さあ、そろそろ電気を消して眠りにつこう。明日もまた、生きていかなくてはならないのだから。

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親はヒーローだ。

 

どんなに冴えなくても、どんなにかっこ悪くても、子供の前ではヒーローだ。

 

小さい頃から運動神経が悪く、体育の授業ではいつも馬鹿にされていた。

 

サッカーの授業でパスが回ってきたことは一度もなく、いつも隅っこで大人しくしていた。

 

それでも、日曜日子供がサッカーをしたいといえば、一丁前にサッカー選手になるのである。

 

昔から要領が悪く、仕事ができなかった。

上司からは怒られてばかりだった。

 

それでも子供の就職となれば、一丁前にアドバイスをするのだ。

 

子供は、いつか気がつくのかもしれない。

自分の親が完璧な人間ではないことに。

もしかしたら格好良くないかもしれないことに。

 

でも、親はやっぱりヒーローだ。

これだけ家族を幸せにできるのだから。

みんなを笑顔にできるのだから。

 

ヒーローじゃなきゃ、できる事じゃない。

 

 

公園

公園には人生が詰まっているみたい。

 

子供からお年寄りまで。怒っている人から泣いている人まで。そこには沢山の人の様々な人生がある。まるでドキュメンタリー映画を見ているみたい。

 

ほら、真ん中の広場では、子供たちが楽しそうに走り回っている。ただただ走っているだけで何がそんなに楽しかったんだっけ?思い出せないけど、きっと彼らは凄く幸せなんだろう。

 

あら、隅のベンチでは何やら険悪なムードの若いカップルが。折角公園デートにきたのに、喧嘩でもしたのかな?でも、大丈夫。来週にはきっと忘れて、また二人で笑っているよ。

 

池の畔には、老夫婦の姿が。ゆったりと歩く二人のペースは、きっと何年もかけて培ってきた心地よいものなのだろう。いくつになっても寄り添っていられる関係性、憧れちゃうな。

 

そして、けたたましい泣き声。走り回っていた子供が転んでしまったみたい。笑ったり泣いたり、子供の感情は目まぐるしいね。でもそれだけ自分の気持ちに素直ってことなのかも。大人になったら自分の感情と戦わなきゃいけないことが増えるから、今のうちに沢山笑って、沢山泣いておくんだよ。

 

もうそろそろ日が落ちて暗くなってきたね。子どもたちは家に帰り、美味しい夕飯が待っているのかな?

 

賑やかだった公園も夜になるとしんと静まりかえり、まるで違う場所みたい。

 

遊びに来ていたみんなを見送って、公園も眠りにつく。

 

また明日、みんなが遊びにくるのが楽しみだな。それまでおやすみなさい。